クライミング、この遊びでは競技者だけでなく設定者にも思いを馳せる必要がある。なぜなら課題自体が作品となりうるからだ。登攀者だけでなく、設定者もまた表現者となりうる。
クライマーとセッターの関係、それは絵画や彫刻を見るというよりは、参加型の現代芸術と似てくるように思う。目で見て頭でコンセプトを理解することもできるし、たんに参加して体験することもできるし、両者の結果として、セッターの想定を超えることさえできる。
ここでは見巧者は即ち高いオブザベーション能力と同義だ。クライミングに通暁すればするほど、課題に込められたもの―意図しないものを含む―を読み取れるようになる。
誤読の可能性をはらみつつ、それらが肯定される土壌がある―登れたらそのムーブが正解になる―という点で、課題は殆ど文学作品と同じように感じる。
クライミングには本当にいろんな側面があって、いろんな楽しみ方ができると思う。
