リーダーって聞いたことがあるけれど、今もいるのか、どうか。
リーダーといえば、範を示す人だよな。教える人はじぶんができなきゃならない、こう書くと「そうでもないんじゃない」という気もしてくる。いっぽうではじぶんのことを棚上げにしないと何もいえなくなるところもある。教授と批評のちがいだろうか。
リーダーは導く人だからみずからがそのモデルにならなきゃいかんと、そういう部分はあるか。するとコーチも生徒を導こうとしたらじぶんができないとアカンやつ。
ひょっとしたら、トレーナーとかコーチといった種々の呼称は「先生」を回避する側面もあるのかもしれん。リーダー、先生を名乗らない限りにおいて言いたい放題できると、こうなるか・・・ならない。
さしあたってこれらのちがいは截然としたものではなく、グラデーションであると理解しておけばそれでよかろう。教授寄りの批評、先生寄りのトレーナー、といったように。
さておき、ひとにアレコレ教えるのはじぶんに教えることにもなり、他人に話すことによって自身の考えが整理されてくる、これには異論がないだろう。ただ、クライミングとなると、まず導かれる先がないからリーダーの出番はなさそうだし、基本的に「ヨソはヨソ、ウチはウチ」だから教授もしっくりこないし、まず独り遊びである気がするからなあ。
各自がそれぞれの分野で道を切り開いてはいるものの、必ずしも集団のリーダーという感じではない。
たいてい、強いひとは、聞かれたら示唆してくれるけれど、それ以外はじぶんの課題に取り組んでいるように思う。こうしてみると料理人の世界のようである。「教わるんじゃねえ、盗め」である。
こういうのはきっと、あまり手取り足取りされると学ぶ力が失われてしまう、それを戒めるためのことばなのだろう。たとえばベンチプレスをしていて、トレーナーがスポットに入っていて、10回目標のうち1〜4回は自力で、5〜7回は徐々にスポットして、8〜10回はトレーナーが代わりに拳上したら、トレーニーはがんばっているし、トレーナーも手助けができて、二人とも満足するかもしれないが、そりゃあ伸びは少なくなるやろう。
同様に、普段の暮らしのなかでも、相手が探していることばを補ったり、いいたいことを察したりするのは、相手の学ぶ機会を奪うことにならないか。いっぽうでコミュニケーションが円滑になるからますます見落とされがちになるが、これはひょっとしてワナなのかもしれないな。
まあ個人的には心配なさそうだけど。むしろそういうひとってすごいよなと思ってしまう。