ヴァレリイ

 解釈するだけでは人間は変わらない。

 

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 人は誰しも脅かされることに不安を抱いている。この不安が人を攻撃的にしたり閉鎖的にしたりするのだが、にもかかわらず本人は安全であることが殆どだ。

 

 日常生活において脅迫が深刻な事態を招くことはありえず―どんな犯罪都市だって会う人全員がカツアゲしあっているわけではない―、したがってこの不安は殆どの場合杞憂に終わる。

 

 ある種のメンタル・トレーニングにおいては、自身の心的立ち位置を客観化するために、恐怖を合理的なものとそうでないものとに分けるという。何か不安を感じたとき、いちど冷静になってそれがほんとうに不安と呼ぶにふさわしいか確かめよう、という寸法。

 それに対して態度を決め、決めたら100%―行くときは行け、これが大事な点であるそうだ―実行する。

 

 でも実際はこんなにうまくできる筈はなくて、何故というにこれがしっかりできるような人間は少なくとも日常生活レベルで不安に苛まれたりしない。こうしたメソッドは、自ら危険の多い状況を作り出し、あるいはそうした状況に入り込み、それを克服したがる人間にのみ必要なものだ。

 

 実行できない人間が悩むのであって、決めきれないところを決めないと言い余白と言い趣と言い、味と言ってしまうのは、その種の人間が昔からたくさんいたことを示唆している。かくいう私もそのクチです。

 味、余白、興趣などというものは、決めた後のその先にあるので、決められないのはたんなる決定力不足。試合にだって勝てはしない。

 

 決めないことを決める力。その余白はたんなる空白ではなく、その上に描かれるものへの予感に満ちている。それを力と呼ぶのに何ら不都合はない。すなわち充実した無。

 

 ではどうやって、そう自問する。我ら哀れな仔羊たちは救いを求めればよいのか? 

 

 「とはいえ私の役割は、問題を提起するところまでである」そう呟いて終わっておこう。