南風

 時計について。

 

 私の部屋には時計がない。ついでに言うとやかんもない。両者の間にとくに関連はない。

 こういうものは人から贈ってもらいたいと、何となくそう思っている。なくても困らないが、あると便利で、一度購入すると長く使うもの、こうしたものはいざ買う段になると吟味が必要で満足しづらいし、なくても困らないからついつい後回しにされがちで、ゆえに人からもらうとたとい好みに合わなくても気持ちのものとしてありがたく割り切っていつまでも付き合える。

 

 そういえば男性が女性から贈られてうれしいものにジッポがあるが、私は煙草を吸えないのでやっぱり出る幕はないみたいだ。蚊帳の外。逆に女性が男性から贈られたいものが何かと考えて、手近な女性に訊ねてみたら愛または情熱だという。なるほどね。

 

 ・・・おっといけない、時計について。腕時計、掛け時計、柱時計、砂時計、水時計日時計、腹、いや鳩時計、などいろいろあるが、いろいろあるからといってどうなるものでもない。みなそれぞれに時を刻んでいる。

 

 いまはパソコンでもスマホでもウォークマンでも確認できるから、時刻を知るだけなら時計はもはや不要である筈だ。であるから、時計には単純に時を知らせる以上の役目があってしかるべきだと、こうなりそうである。端的に言えばビジネスマンのおしゃれポイントはスーツとネクタイと靴とあとは時計くらいしかないよね、という話。

 

 外見から入る、形から入る、金をかけた身なりをすることは、対社会的なポジションを上げることだ。サンダルにTシャツで「すきやばし次郎」には入れんものね。また、それなりのスーツなり時計なりを身につけた人間がそれなりの場所にいたら、それはやはりそれなりに―丁重に―扱われることだろう。

 

 それなりに、と言うのはその違いのわかる人間がいなければ―あるいはさっぴいて評価されたとき―、せっかくお金をかけていろいろと誂えてもその効果はゼロに近づくからだけれど、そうなったとき日ごろ下へも置かれぬ対応に慣れていた人間が戸惑うこともある。だから形は相当大事だが、それにおもねったり寄りかかったりしたら意味ないのだな。

 

 かつて夢枕獏氏が「身体がデカいのはそれだけでひとつの才能だが、それを意識した瞬間アドバンテージはゼロになる。そういうものだ」といった旨のことを一連の格闘関連の小説やエッセイに書いていた記憶があるが、心構えとしては本当にそんな感じになる。

 

 でも、実は形を整えるにもそれなりに力がいる。この力は金と言い換えてもよい。ある程度までセンスは金で買えるからだ。

 

 したがって「金が一定以上あればよい」となりそうだが、実はきちんとした服装をするのはそもそも大人として当然のことなのかもしれなくて、だから服装というのはたんにスタート地点にすぎず、そこからやっと己のために見えてくる景色があるのかもしれない。安易に軽んじてはいけないみたいだ。

 

 ええとだから

1 金は大事で

2 使いどころが大事で

3 使った後はそのことを忘れろ

 

 というあたりになるのかな。

 

 さ、変な服でも買いに行こう・・・アレ、時計は?

 

 

 

パタゴニア