ぶら下がり日誌~ボルダラーへの道~

釣りときどき岩、そして

あもくん

 森の近くの一軒家で囲炉裏にたき木をくべていると、引き戸を叩く者がある。こんな時間に誰だろう、そう思って「はい」と返事をしてみると、何故だか向こうもオウム返し。

 

 「どちら様ですか」と尋ねたいところだったが、とりわけ寒い日でもあったし、どうせこんな辺鄙なところへ賊も来やしまいと思って「お上がりください」と言ってみたのが運のツキ、引き戸をガタリと入ってきたのはどこから見ても現世(うつしよ)の者とは思われない。足のある幽霊がニコニコと笑いながら框のところに佇んでいるのである。

 

 どうして一目でこの客が幽霊だとわかったのかわからないが、とにかくわかったのである。そして「わからないがわかった」のがわかっているということは、この勘は信用していいということになる。ただしこれも勘だ。

 

 おそらく彼は僕の領域(テリトリー)に入るために許可を必要としたのだ。幼い頃、僕は祖母からそうしたものについて聞かされたことがあった。祖母は「人の陣地に土足で上がりこんでくるわけではないから害のある連中ではない。咎人ではあるかもしれないが、客は客だからきちんともてなしなさい。そうすれば何も恐いことはないのだ」と言っていた。彼女自身、生前何度かこの種の訪問を受けたことがあったのだという。

 

 僕はしじゅうそんな話を聞かされて育っていたから、目の前の異界の存在にも別段肝をつぶすというようなことはなかったが、まあそれでもビックリはしていた。するとさらに驚いたことに客は「そうですかおばあさまから私どものことはお聞き及びでいらっしゃるト。これは話が早い」と嬉しそうな声で言った。どうやら彼は「サトリ」であるらしい。人の心を読んでしまうというあれである。

 

 よくよく珍しい客が来たものだと思って、僕はとりあえずサトリに裏返した座布団を勧め、ちょうど呑もうと思って温めていたお銚子があったので「一寸ぬるいかもしれませんが」と言いつつ一杯ついであげた。言った後でそんな必要がないことに気づいたが、いかにも遅い。サトリは微笑しつつ杯を受けてくれた。話すのが上手くない僕にとっては都合のいい客である。

 

 結局、我々はその日僕が沢で釣った山魚の塩焼きとすこしの味噌を肴に夜明けまで酒を酌み交わし、サトリは午前5時前のかわたれ時にほろ酔い加減で帰って行った。僕が千鳥足で森の端まで送っていくと、にわかに空がかき曇り、風がざわめいて木の葉をぶんぶんと揺らした。

 

 彼が置き忘れていった帽子は今も僕の部屋の壁にかかっている。また来てくれると嬉しいのだが。