ビリー・ジョエル『ピアノ・マン』
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―Sing us a song, you’re the piano man, sing us a song tonight.―
バーには古いアップライトピアノが置かれている。それはいちおう掃除されてあるのでホコリはかぶっていない。調律も定期的にされているし、ハンマーの寿命もまだだから、トーンはともかくとしてもピッチはちゃんと合う。
にもかかわらずこのピアノを弾くものは誰もいない。店内にはMacからつないだ上質のスピーカーを通して適度にエッジィなジャズが流れている。バーテンの女性はアイスピックを使って真剣な表情で氷を砕いている。ごろんとした正十二面体にするのがこの店の流儀である。
そんな酒場に流れ者のピアノ・マンが漂着したのは12月も半ばのこと、大きな木のボタンのついたズタボロのコートに折り目も分からぬスラックス姿でやってきたのだ。
彼はバーテンの女性にジントニックを頼むと勝手にピアノの蓋を開け、メロディを紡ぎはじめる。氷を砕くバーテンダーの手が止まり、Macの音が遠ざかり、客のさざめきがやむ。瞬く間にピアノ・マンを中心とした強力な磁場が形成され、興に乗ったピアノ・マンはメロディとリズムとハーモニーを殆ど制御不能なところまで推し進め、次の瞬間ガラガラとうちこわしてしまう。
ストップ・モーションが切れたように酒場に活気が戻ってくる。バーテンの女性がピアノの上にジン・トニックを置いてこう言う。
「―――」
さて、何と言ったのやら。
