ぶら下がり日誌〜ボルダラーへの道〜

子育て、仕事、パン、文具。ときどきファミコン。

チューブラー

 選択はかつて選ぶものだったが、いつの間にか選ばされるものとなり、いまや選択の本質はいかに選ばされるかの一点にあると言っても過言ではない。選択は幻想であり、「選んでいる」というのは思い込みに過ぎない。

 

 これに対し60年代のある連中は「みんなぶっこわしてしまえ。そうすれば幻想も脆弱な自己もぶっ飛ぶから、その上で残ったものを抱きしめればいい」とやった。

 

いまはどうか。「己を殺してしまえ。選択幻想のイメージやブランドに自己表現を委ねてしまえば、脆弱な自己はいなくなって、幻想は現実になる」とか、そんなところだろうか。

 各々の幻想の組み合わせ方に半ば無意識的に自己が現れるというのがミソで、これは懐疑の対照になりにくいという点で善し悪しは別にして実は強度が高い(長持ちする)。

 

60s→中空シャフトのような自己

00s→おぼろ豆腐のような自己

 

「同じことをするにもいろいろなやり方がある」か。チェホフは本当にうまいことを言う。

 

 

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