Taylor

 祖母が生前「ちょっとでも世の中に繋がっていた方が追い込まれなくていい」と言っていた。コミュニティでもグループでも組織でも集団でも何でもいい、ともかく帰属し、そこに貢献することだ。

 

***

 

 我々は常に関係性の中で生きている。もちろん、独りで生きたって構わないが、それでこれまでのつながりが急に断ち切れたりはしない。

 己がつながりから生まれ、それに育まれてきた事実に簡単に背を向けるわけにもいくまい。そこに何が生じているかといったら、責任なのだろう。無責任を気取ることもできるが、それだって何らかの代償を伴う。そういうものだ。

 だからこれも、例によって岩登りのスタイルの話と一緒で、つながりへの関わり方は人それぞれで、強制するものではないが、より良い形があるのだろう、と推察される。

 

 多様性はそれは大事だ。とりあえずダイバーシティと口ずさんでおけばそれでOK。とはいえ三々五々、てんでバラバラになって、集団のパフォーマンスが低下するのはアカンよな。

 だからまあ、核の部分を共有する多数派と、枝の部分を共有する少数派、という構成がなんとなく丁度いいのではないかと、そんな風に思っている。

 

 己の属する組織の核をどの程度言語化できるか、それを組織の人員が互いにどう共有できるか、といった問題については、残念ながら筆者の手には負えない。Beyond me.

 おまけに人間は変わっていくものだから、核も共有の度合いも、程度の差はあれ常に変動することになる。

 

 話は逸れるが、仮に上記のような考えで友人を「安定した知己」と捉えるなら、我々が本当に友だちであるとわかるには、思っているよりずっと多くの時間が必要だ、ということになるのかもしれない。

 

 何やら「友だちを大切に」という、いつもの当たり前の結論になってしまった。以上、連絡終わり!

 

 

 

f:id:krokovski1868:20220122174643j:plain