映画の話7

 幾多の違いを跳び越えて一瞬にしてつながる、それが芸術だ。

 

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『フォーエヴァー・モーツァルト』(ジャン=リュック・ゴダール、1996年)

 

 この映画にモーツァルト性があるとすればそれは気まぐれさだ。モチーフを発作的に取り扱って、どうなるかと思わせた次の瞬間、スチャリと着地する。

 

 本作がそのように終われているかイマイチ判然としないのは、映画の主題が人生だからで、すなわちどこで終わらせるかは永遠の課題になりうる。

 

 サラエヴォ、90年代の自浄できないヨーロッパ、政治、自由、責任―哲学的命題は提出されはするものの、いつも通り表層をすべっていく。各々の言葉はただ読まれるだけである。演技は言葉を殺すからだ。

 

 メタ映画、メイキングというよりは、映画を解体する試み、とでもした方が近い。いつもの如く情報過多で多義的で、したがって字幕も追いつかないから、頑張って観てもよくわかんないんだよナ。

 

 ストーリー性はあまりない。はじめはあるのだけど途中で空中分解、したかと思うと急転直下終わる。

 

 無数の徴がある。どこにも向かわない符合は無数の読みの可能性を生じさせる。

 言語を与える以前の感情、それに名前をつけるのは他人だ。純粋な感情、言葉、行為、それらに意味をつけるのは他人だ。

 

 映像を映画にするのは観客である。これをモーツァルト宣言と捉えていいのか、筆者にはわからない。

 

 とりあえず煙草が吸いたくなった。そんな作品。

 

 

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