だんだんと遊んでくれる人の顔ぶれが変わっていく。自分も周りも変わっていくから、当然と言えば当然なのかもしれない。この数が少なくなってくると、やはり哀しいが、さりとてどうすることもできない。
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生きていると実にいろいろなことにぶつかる。論語によれば40にして惑わずという。50にして天命を知り、60にて耳順うという。本当かどうかわからんが、野坂昭如は「40になったら自分の顔に責任を持て」と言っている。だいたいわかるけど、なんだかよくわからない。
その時には決してわからない。気づきの多くはいつも遅れてくる。
ひょっとしたらそれは少しだけ死と似ているのかもしれない、最近になってそう思いはじめた。「死について見えるのはいつも横顔だけだ」と言ったのはフランスの誰だったか。小林秀雄は兼好法師を評した文章の中で、死は正面からではなく、後ろから来ていつの間にか我々をとらえるのだ、という旨のことを書いている。この頃ようやくそれが少しずつわかりだした。畢竟、ある種のことがらに対しては、人はいくつになっても準備することができない。
何かを残すことについて考えることをできるだけ避けてきたから、いざ自分の熱量が乏しくなってくると、途端にグラグラになってしまう。
つきこめばつきこむほど、つきこみたくなっていくもの、そうしたものに出会えた者は幸いである。そうではない我々はどのように生きていくか。Carpe Diem、そんなに力強く生を謳歌できぬなら、どうだろう、周囲をあたたかく笑わせることに専心したらいいのかも。知らんけど。