グアニル

「事物は一緒になるためにはまず離ればなれにならなければならない」

―G・ジンメル

 

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 引用に関するあれこれ。

 

 

・引用は元ネタを知らないとできないし、受け手もそれを知らないとわからない。ゆえに楽屋オチ的な側面がつきまとう。

 

・引用元と先が主従もなく複雑に絡み合っている場合、引用とオリジナルの境界は見えにくい。

 

・引用者の意図と、受け手がそこに見出す意味とのあいだには乖離がある。

 

・受け手が引用に見出すものはさまざまである。たとえばイロニー、パロディ、ユーモアなど。

 

 

 分野によっても考え方は変わってくるだろう。音楽において引用を具体的に実務的に突き詰めていったら、それは最後にはメロディーに行き着くのではないかと思う。

 逆方向につきこんでいけば、あらゆる楽音は等しく既知で、作品はそれらの引用の組み合わせだ、ということにもなりそうである。これは音楽のみならず言語にしてもそうで、たとえば未知のものについて語るとき、我々は既存の言葉の組み合わせによってしか、表現することができない。

 

 そのようなとき、創作性はどこに見出すことができるのか。あらゆる思想・感情が、先行する何ものかの影響を受けているとき―たとえ作り手がそれを自覚していなくても受け手のほうで想起してしまう―、オリジナリティはどこにもとめられるのか。

 

 「それは組み合わせ方の内にある」というだけでは十分ではあるまい。それは片方が「ある」というだけでは成立しないし、またほとんどいつでも作り手がおもった通りには受けとめられない。作品は受け手によって解釈されるからで、あらゆる作品はそこからのがれることができないし、同時に受け手のいない作品もまた存在しない。無観客で演奏するとき、聴き手は自分自身になる。

 

 このようにかんがえると、創作性というものは、おもうより流動的で、相互的なものなのかもしれない。これはジャンル問わず創作全般にいえることで、してみると芸術とは、現実のあらゆる縛りを瞬時に裁ち切ると同時に、つながりを必要とする、といって差し支えなさそうである。

 

 あるいは裁ち切ってつながりなおす、それを営々とくり返すのが人間である、というべきか。以上、連絡おわり。