高校のころ、日本史の先生が江戸時代の何ちゃらを黒板に書きつつ言ったことには「どんな名君も晩年には少し狂ってくる」のだそうだ。たしかにそうかもしれない。
***
「美醜や善悪なんてない、あらゆるものは等しく美しい」、あるいは有名なコピー「みんな同じで、みんないい」、こういうのはしばしば「みんな等しくどうでもいい」と裏表になってくるから、ソフィスト気取りの連中がブラックで皮肉で断定的で偉そうで人の話を聞かない―というのも聞いても聞かなくてもおんなじだからだが―ように見えるのは、たぶんまちがっていない。
ソフィストたちはいかにも洗練されたスマートなダンディに見えることもあるが、しばしば当事者意識にとぼしく、実生活にはむかない。彼らの現実は現実ばなれしていて、それは映画でも写真でもない、ただの映像の連続なのである。
しかしながら、実生活などというものがどこかにあるのかどうか、それすらももう、よくわからなくなっている。かなり前から境界線は曖昧化されてしまっていて、僕らの感覚は僕らのものではなくなっている。
自分が狂っているかそうでなければ相手がまちがっている、というのは嘘かもしれなくて、自分も相手も違うところが同じだけ狂っているだけかもしれない。
だから僕らは今日も泣きながら理解にくるしむ。理解が不可能であることを理解しようとして。