お布令

 エンゲル係数= 食費÷消費支出 × 100

 

 エンゲルの法則・・・所得が上昇するにつれて、エンゲル係数が低下すること。

 

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 ふと「エンゲル係数を20%にしてみよう」と思い計算したところすこぶる高い。ゆうに40%を超えている。しかしながら「一食たりとも油断するな」をモットーに長年暮らしてきた人間からすると、これはエンゲル係数が下がらないというよりは、全体の消費を削りすぎているのではないかと言いたくなる。

 

 スマホも時計も車もなくて一向に構わないが、食事には使いたい。CDや本が買えなくなっても別に構わないが、食費は自由に使いたい。これでドレスコードというものが存在しなかったら一張羅もなくなってしまうかもしれないと考えてしまうくらい、食は重要である。衣食足りて礼を知るというが、筆者の場合、ほとんど完全に食に引っ張られている格好である。

 一方で、いい服を着ると気分が良くなるというのも事実である。服の力は偉大で、そうでなければ服飾業界はこんなに大きくならない。

 

 われわれが生きている限り「食」は根幹であり続けるし、関わりあいの中で生きていく限り「衣」が廃れることはあり得ない。その上に「礼」が生まれて、それは少なくとも現代では偽善と殆ど見分けがつかなくなっている。

 

 話は逸れるが、アスリートや冒険家やヨギーに共通しているのは己の肉体への信仰心ではないかと思う。もっと言えば、彼らの目標は人間が何処まで行けるか、あるいは人間に何ができるかという可能性の追求であって、肉体の鍛錬はあくまでその過程なのだろうが、こころとからだはつながっているので、自然とそうなるのだろうと想像している。

 

 ボディビルダーなら「筋肉は裏切らない」などと言って終わりにしそうだけれど、世界でもっとも正直なのは己の肉である、そういうことではないかと思う。とかく頑健な身体は得がたいものである。

 

 残念ながら筆者は自分の身体をそこまで上手く動かせないので、信仰にまで高められてはいないものの、どうあれ最後には自分の身体に戻ってくるんじゃないのとは思っている。「丈夫に生んでくれた親に感謝」というクリシェはよくよく考えると首を傾げたくなってくるが、そのあたりから「親からもらった身体に傷をつけてはならない」につながって、そこから儒教的な教えに何となく引っ張られて、そこへこの島に生まれた者が持つ八百万の心性が混じり合って、己の精神が形成されているような気がしている。

 

 これまでに受けたさまざまな教育から少しずつ自由になって、最後には生まれた土地の近くに戻る、そんな予感もある。岩を登ったり、ウオ釣りをはじめたり、養蜂を手伝ったり、山や渚でイノシシに遭遇したりするのも、偶然とは思われない。

 いや、個々の出来事は偶然なのだが、それらは必然に導かれている、というべきか。起こるべくして起こっていることのように感じるときがある。

 

 「必要な段階に至ったとき、師は目の前に現われる」だったか、たしか『拳児』に出てきた台詞の筈だけど。これも探して読み直してみよう。

 

 ところで『拳児2』はどうなったんだろう?