万古不易

 学問とは心を澄ませ感受性を守る道である。これホント。

 

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 昔は騒がせ屋と処理屋がはっきりしていたが、今は騒乱は未然に察知され起こりを抑えられ、建設はとうに済んで安定を維持するのが主だから処理も目立たない。結果として搾取と横暴はブラックに呼び名を変えて日常の気軽な語彙にまで落とし込まれている。

 

 迫害でもなく弾圧でもなく圧迫でもない、閉塞感とすら書くのをためらうこれを何と呼べばいいだろう。非常にうっすらした抑圧、もうそろそろ消えたかと思っていたがこれは「空気」だ。当たり前すぎて存在を忘れてしまうようなレベルでずうっとにじり寄られたら、それは人心も荒れるわな。

 

 そんな世界に生きる小市民のひとりとしては、これまたどこか小さな世界で小ナポレオンとして振舞うほかはない。現代ではそのフィールドがPCを通じてネットの海に広がっているから膨大に見えるだけで、中身は内弁慶と変わらない。残念ながら筆者もそのクチである。

 

 ものの本によれば、家畜の定義とは「生殖が人の管理下にあるかどうか」の一点につきるそうである。社畜はどうだろう。人事は社に管理されるが、自分で出て行くことが許されている限りは、少し違うのかもしれない。むしろ単純に奴隷と言いたいところを、例によって空気が「社畜」に変え、ぼかし茶化し朦朧化して誤魔化している。ブラックとおなじだ。

 

 人事において大切なのは、先の見える人間を、その構想を打ち立てていくのに格別な場に置くことであるという。先の見える人間をどう見分ければいいかについては、残念ながら筆者の手に負いかねる問題である。

 

 以上、連絡おわり。