木地師

 どんな動物でも、群れを率いるボスは挑戦を拒否できない。拒否することは敗北を認めることであり、ボスの座を降りることを意味する。

 

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 組織には責任の所在というものがなく、いったんことが起こればけむりのごとく問題をうやむやにしてしまう。固陋な年齢序列では人材は出られないし、出たところで何もできないだろう。

 

 この中で何かを動かそうとすれば、人に使われる必要がある。人にうまく使われるためには、曹操でも孫権でもなく、劉備タイプでいるのがよい。すなわち「語言少なく、善く人に下り、喜怒を色に形さず」・・・これもう英雄じゃん、と言われても困る。そういうものなのだから仕方がない。

 

 10年ほど前は「英雄豪傑はとうの昔に忘れ去られ、必要とされなくなっている」と結論づけていたのだが、最近では反対のような気もしてきた。少なくとも、治世における英雄がただの不穏分子なのは確かである。あるいは乱世が英雄を呼ぶのかもしれない。それはわからない。

 

 けだし英雄は平穏よりも不穏を必要とする。でないと彼らの回路はもつれて、身体から草が生え、鼻からくちなしの花が咲いてしまうのである。

 

 組織にも動乱期があり、建設期があり、その後の安定期がある。組織が半ば自律的なものである以上、この種の起伏は常に生じる。制度についても同じだ。どんなに優れた枠組みであっても、時間が経てばそぐわなくなってくる。

 

 人間にも同じことが言えるのか、どうか。青春、朱夏、白秋、玄冬、あるいは四住期。

 己はどうだろう。生きすぎている人はみな不幸だが、少しばかり死にすぎているかもしれない。