うまい棒―12円(税別)
ノスタルジー度・・☆ なんたっていまも現役。
ジャンク度・・・・☆☆ 舌を痺らす怪味の数々。
名作度・・・・・・☆☆☆ ほぼ全国民が知っている。
(株)やおきん不朽の名作。2022年4月現在でそのラインナップは60種類以上といわれる。1979年7月の発売以来、いくつもの新味怪味が生まれては消えていった。どなたにもひとつくらい「ン、この味なかったっけ?」という経験がある筈だ・・・ないか?
やっぱりめんたい味かなあ。サラダ味も捨てがたい。ちなみに「うまい輪」なんていうのもあるが基本はやはり棒、だと思う。
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駄菓子屋、と聞いてノスタルジーを感じるかどうかって、世代の分かれめになるのだろうか。あるいは「いやオレ毎週行ってるよ」という方もいらっしゃるのだろうか。ちょっとよくわからない。
駄菓子屋の機能の一部は確実にコンビニに引き継がれていて、それは要するに一部のお菓子が買えるという話なのだが、駄菓子屋の主たる機能と価値はたぶんそこにはない。その機能はずっとむかしは社交にあり人間形成にあり、ちょっと前まではノスタルジーの喚起にあった。いまはどうなったか知らぬ。あの可哀そうなニホンカワウソのように人知れず絶滅して、いなくなってからようやくその存在を主張しはじめているのかもしれない。それはわからない。
学校をおえた子どもたちは駄菓子屋に集った。瓶入りのコーラを飲んだり、ブタめんを食べたり、何やかやといっしょに遊んだ。長じて悪童になると、置物みたいなおばあの目を盗んで万引きに励んだ。おばあはきっと気づいていただろう。それともほんとうにボケていたのか。悪童たちは行為のあまりのイージーさと獲物の無価値さから、たいていは自らの行為を深く恥じ、心をいれかえた・・・捕まった者もいたが。
大人になると駄菓子屋はノスタルジーを喚起するだけのものとなって、「いまの子らは駄菓子屋など行かないのだから、一体だれが行くのだろう」と、おばあさんの置物がミイラになったのを想像して―おばあのオバケだ―、寂寞とした気分におそわれるのだった。
しかし青色2号とか黄色3号とか、とりあえず着色料に「号」のついているものを平気で毎日食っていたというのは、現代の親からすれば信じられない話かもしれないが、当時の悪タレどもはそれでけっこう楽しくやっていたし、無事に生きのびて今に至っているから、妙といえば妙な話だ。
それで駄菓子屋のほんとうの価値はどこにあるかというと、僕らの深いところにあるので、容易には取り出せないのだな。(本当かね?)