ハッキリ言って趣味が読書という人の9割はなまけ者と思っていい。
***
冒頭はもっとむくつけな言い方もできる。「本など読むな、バカになる」とかそういうの。奇妙なことだが、こういう言葉はあまりにも熱狂的でグロテスクなので、かえって相手を傷つけない。「コーヒー飲むとバカになるんだってよ」というのと一緒である。
ここ15年ほど、計算された即興という地点を目指して、エセ自動筆記で文字を連ねてきた。しかしながら、感覚的に文をただ並べていくだけでは、遠からず終わりがやってくる。反復によって神経回路がつくられるように、自動筆記の回路ができてしまうからだ。
そんなわけで途中から身体を鍛えだした。システムの構築には持続が不可欠だからだ。その持続は鍛錬によってしか生まれては来ぬ。精神を鍛えるもっとも手っ取り早い方法は身体を鍛えることである、半ば無意識にそう考えていた。
もちろん、中には一瞬の集中力でシステムを突破してしまう兵もいるが、これは野球でいえばクローザーのようなもので、それで9回は投げきれない。長く書き続けるにはクローザーより先発完投を目指すのがいい、筆者は当時そのように考えていた。
だからわりにちゃんとしたシステムをつくる必要があったのだけれど、これは大筋で確立されつつ時に応じて変化していく柔軟さを持たねばならないから、骨組みだけでもつくるのに相当の手間と時間がかかる。おまけにどこまでいっても完成しないとくれば、こうして書いているだけで無理芸だったと知らされる。
というわけでどこかで根負けして、手段が目的化して、それも果たせなくなっているのが、筆者をめぐるトレーニングの現状である。
どういうわけか今頃になって原因を考えることができるようになったので、考えてみたところ、どうやらシステムを作るのに作り方を学ぼうとしなかったせいではないかと思い当たった。システムを作りたいのにシステマティックなアプローチを拒絶していたら、それはうまくいかんわな。この程度のことに今頃になって気づくなどよほど間の抜けた話だが、それでも気がついたのはいいことだ。
ぼちぼち反読の時期もやってきそうだし、作品の構造を考える潮時かもしれない。プロットや構図、書き手のテーマとモチーフの展開、そういうものに思いを致しつつ読もうとしていい頃合いなのかもしれない。(この項了、次回に続く)