ぶら下がり日誌~ボルダラーへの道~

釣りときどき岩、そして

Something/Anything

 前回の続き。

 

krokovski1868.hatenablog.com

 

 それでもどういうわけかものを書くのが好きなのだ。脳の反応するうちはやめられないと思う。それが何の足しにもなっていないことはわかっている。それでもなんでもかんでもなんとなくなにか書いてしまう。

 こういう人間が他人に信用されると思いますか? 信用しないで下さい。

 

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 文体のできかたは様々だと思う。たとえばテーマと構図ができて、それから文体ができる。構図がなければ文が出てこないところはあるし、テーマがなければ構図もへちまもない。

 そうやって純粋に形式にしたがって書くこともできる。構図は絵やそれこそ図形でいい。その方が文が死にづらい。

 

 逆に構図を一切無視して、一言半句のみを集めていくやり方もある。これだと個々のパーツは短くなりがちで、構図はあとづけになる。筆者はこのタイプの典型である。繰り返しになるが、このやり方で文章を書くと、大抵は軽薄になるか、よくて雰囲気ものになる。

 

 素敵な素材をただつなぎ合わせるだけでは文章は成立しない。書きものを成立させるには個々の要素が有機的に絡み合わねばならない。ある種の計算が不可欠で、構築するにせよしないにせよ、破壊するにせよしないにせよ、書かれたものが全体として何かを醸し出していなければならない。少なくとも10年前の筆者はそんな風に考えていた。

 実際はブレンドだ。材料があり構図があり、結果的に文章が一定以上のレベルに達すると文体として確立される、それが実態のような気がしてきた。

 

 話は逸れるが、往年の大投手が「一日80球? バカ言っちゃいけないよ。200球超えてくると体が疲れてくる。そうすると無駄な力が抜けて正しいフォームになる」とどこかで語っていたのを読んだことがある。これは極論だが正論でもあるように思う。

 投げ過ぎて故障してしまう前に適切なフォームを見つけなければならなくて、そのためには深いところで自己の体との対話ができなければならないが、これには気づきが不可欠である。このセンスと体の強さの総和が一定以上あれば、その人間は投手としてやっていける。

 要は一流になるためにはセンスと純粋な体の強さの両方が必要であるという話で、この大投手の言葉の重いのは、淘汰と適者生存の法則を裸のまま語っているからである。

 

 それで話を書きものに戻すと、素材を見つける才能、構図を見出す眼、文体を選ぶ感覚、そうしたものはあるにこしたことはなくて、もしそれらが不足していても、文に対するセンスがそれを補うだけあればいい、ということになりそうである。

 

 材料も構図もそれが指し示す文体も何もなしでも、ひたすら書き続けていれば文に対するセンスが磨かれて、いつか福音として文体がもたらされるのではあるまいかー15年前の筆者の気分を言葉にすればそんなところだろう。ウンまあ無理だよね。

 

 当時の自分に言い添えねばならなかったのは、淡々と現状を描いていくこと自体がまず「できない」といっていいほど難しいことだろう。描こうとする何かが強固であれ脆弱であれ、正調であれ破調であれ、一流であれB級であれ、何かを“何か”として紙の上に定着するのは至難である。素材が良かろうが構図が見えようが調子が取れようが、それでも難しい。考えれば考えるほど加速度的に厳しくなっていく。

 

 だから誤解を恐れず言ってしまえば、本当に大事なのはレアな経験を積むことでも文章技術を高めることでもなくて、ひとえに境地を得られるかどうかにかかっている。自然体の構え、これが最後まで破れずに保てていれば、何はなくともまずは成功といって差し支えない。

 

 

 ・・・と、ここまで書いてきたものの、投稿エッセイでもあるまいし、なんだか阿呆らしくなってきた。

 結局のところ、こういう話はアマチュアには関係ない。大切なのは書くことは言葉に直面すること、すなわち世界に直面することだという一点だけである。

 

 さあ今日も書こう。