映画の話14

 『さらば愛の言葉よ』(ジャン=リュック・ゴダール、2014年)

 

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 銀座でゴダールを観てきた。3Dである。眼鏡タイプと眼鏡の上からレンズだけ装着するのと二種類あって、レンズタイプは数百円で購入するようになっている。「メガネの上からメガネをかけるのは難儀だな」と思っていたところ杞憂に終わりホッとすると同時に合わせて二千円以上の出費でただでさえ軽い財布がただの布きれと化す。

 

 それでゴダールのこの作品、結論からいうと観てもいいけど観なくてもいいかもしれない。彼のスタイルは既に確立されて久しいから、その発展と変遷をたどるのが観客の主たる興味となるわけだけれど、さてそのスタイルとは世界の梗概を撮ること―すなわち人生を撮るのがゴダール―だから、これはもうゴダールが撮ればそれで十分なのだ。世界を切り取ればそれでよいから、ストーリーなんていらないし、言葉さえ不要だ。

 

 観客はコラージュされた映像をひたすらに眺め続ける。奔流のような言葉、シークエンスを喚起しない映像、それらは観客の脳を疲弊させ麻痺させることによって逆に純粋に見ることを要求する。言ってしまえばこの作品の目的は何も考えずただ見ること―純粋に世界を知覚すること―にある。

 

 しかしながら我々の眼も耳もどうしたって記号に意味を見出そうとする癖から逃れられないものだから、けっきょくは世界を見るどころか、ぼやけた3Dの画を見ながら―あるいはぶつ切れの音を聞きながら―、折々喚起されたものについて、つらつら考え続けることになる。作品はある意味で鏡のように我々に反射し、またある意味では追憶のスターターとなるわけだ。  

 

 それで「ついていけんワ」と思いながらそれでものんべんと見てしまうのが通例だったところ、今回は3Dで、これが筆者の眼と合わぬのか、どうにもチカチカして仕方なく、集中できずにしょっちゅうグラスをいじっていた。苦痛である。これで頼みの映像まで観られなくなってしまったら、もう本当にその場に居るだけである。

 

 見ることもできず、ナレーターもおらず、シークエンスはつながらず、人物は殆ど意味を成さぬようなことを言い、サウンドはぶつ切りにされる。何も語られないことが贅を尽くして繰り返し語られつづける。

 

 誰にも似ないこと、自分自身からも離れること、コンセプトを偶然に―世界に―ゆだねること。こんな映画はゴダール以外につくれない。振り切れたギフトの持ち主、飛んでる人間にしかつくれないシロモノ、それを確認し、または自分自身に出会うために、我々は彼の作品を求めるのである。

 

 ・・・と、ここまで書いて思ったのだが、ひょっとしたら筆者が好きだったのは実はゴダールではなくラウル・クタールだったのかもしれない。彼の監督作がいくつかあるらしいから近く観てみよう。アデュー・アデュー・アデュー!

 

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 ・・・などと8年前に書いていた。ゴダールもしばらく前に亡くなった。合掌。