昔話の続き。
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路上には屋台が並んで、スクーターや車が容赦なく小道を駆け抜けていく。自転車は殆ど見えない。スクーターのエンジン音は喧騒を、雑多な屋台は猥雑さを醸し出しはするものの、奇妙なことにその2つに大抵ついてくるはずの熱気に乏しい。埃っぽい風は路上で立ち止まってしまっていて、鼻毛がどこまでも伸びて行きそうである。
遠景と近景はあるが、中景がない。3~6階建ての「大厦」と書かれたマンション、此奴らが原因である。
われわれが大厦に挟まれて路上という名の近景を見るとき、大厦はその高さで通りを常にうすぐらくし、空気をとどまらせる。大厦の住人たちの生活の匂いは地上まで降りてこないし、路地そのものも中途半端に広いので、人いきれというものがないのである。つまり雑多なんだけど何となく生活臭に乏しくて、しかも埃とうすぐらさが生活そのものをぼやけさせてしまう。
ここの住人の暮らしは街のある一地区のそのまた一部分で完結していて、それは通りすがりに声を掛け合う老人たちの挨拶や、市場の活況を見ていればわかる。フランスにはセーヌ川の眼と鼻の先に住みながら死ぬまでセーヌ川を見ることのない人間がいるというが、本当にそういう感じになる。
これがたぶん自転車が要らない理由で、徒歩圏内で生活が、もっといえば人生が成り立ってしまうのは、何かべらぼうな感じがする。
それで若者はどうするかというとスクーターや車に乗るので、彼らは徒歩圏内に飽き足りないか、よりスピードを求める連中である。移動あるいは速度そのものへの欲求・・・坂道が多いから、というのが実は一番の現実的な理由かもしれない。