アジール

 家人が息子の寝顔を見て「こりゃ~すっとこどっこいの顔だ」と呟いた。すっとこどっこい・・・。

 

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 記憶は脳に蓄積した経験量の指標となる。これにもいろいろあって、わりに見逃しがちなのが「からだで覚える」というやつ。「習うより慣れよ」とか「昔取った杵つか」とかそういうの。

 

 「ところで昔取った杵つかってどういう意味なんだろう? きねつかを取ってどうするんだろう?」などと20年近くモヤモヤしていたことをさっき急に思い出して、調べてみたら「操った」と書くらしい。だからこれは「昔操った杵」という程の意味となり、昔覚えた餅つきの技術、転じて若い頃に身につけた技量、となるようです。なるほどなあ。

 

 こんな風に見てくると、わからぬことの多さより、わからずに放っていることの多さの方に目がいって、これはこれでどうしてなのか、首を傾げたくなってくる。つまり我々は半ば無自覚の内に記憶すべきものとそうでないものを取捨選択しているわけで、それが無意識に行われているというのは、自由意志の否定、脳への隷属とまでは言わないにしても、いかがなものかという気もしてくる。

 

 とはいえ、これにしたところで、我々の身体にはフィードフォワード機能―手足を動かそうと思う数瞬前に体幹の筋肉があらかじめ収縮する―が搭載されており、ちゃっかり脳に己の意思を先取りされてしまっている。そうでなくても、慣れた道を通勤するとき、オートパイロット状態になることは普通にあると思う。不注意というのではなく、自動化されて意識に上らないのだ。

 

 だからもっと言うと、意思とは独立して在るものではなく、脳内で後から作られるものに過ぎず、我々は自身を完全にコントロールできない存在であることを認めざるを得ないのかもしれない。その脳を誰が動かしているのかはともかく、生かしているのは我々だから、奴隷と主人、呼び名は考え方ひとつで選んでよく、あるいは時に奴隷で時に主人である存在として己を定義できる人間をこそ、自由人―フリーマン―と呼ぶべきなのかもしれない。