正統は論理であり、感覚は異端である・・・本当に?
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向田邦子『女の人差し指』読了。和文の系譜に連なる人がソリッドになるとこうした文体になるのだろうか。やわらかいが芯があり、強いのに重くない。しなやかな自在感が全篇をつらぬいている。
すぐに山本夏彦の例のフレーズ―向田邦子は突然現われてほとんど天才である―を繰りかえすしかなくなって、あまり感想も出てこない。天才のことなどわかるはずもないのだ。
いっぽうで、実際にこういう人が身近にいてもこまるから、書物を読んで仰ぎ見るくらいがちょうどいいような気もする。その点は伊丹十三などと似ている。
巷では向田邦子といえば『父の詫び状』ということになっているが、そうでもないんじゃないかと思う。
それよりなによりこれほどの作品が図書館のブックバンクにポンと置かれて無料で持ちかえれるという不思議。文庫のしかも未刊行作品集だからかもしれないが、それにしても、である。
強いていえばピンと来なかったのは「白鳥」くらい。しかしながらこれも美人を見て「アンタ気にくわない」と難癖をつけたその理由が美人であるというようなものである。
兎もかく、昭和ひと桁生まれと昭和後期生まれのことばの経験はあまりにもちがいすぎている。漢文脈はとうに切れて久しく、和文の素養もなく、規範のない半端な翻訳文のうえに途中から複数言語を習って、カオスというよりはむしろTurmoilになっている。
それでも成人するころまで文章がまだ書くものだったのが救いだろうか。令和世代はものごころついたときから打つか撫でるかして文をつくるだろうから、もっと変わってくると思う。むしろたのしみである。
視覚的効果のある漢字がなくなることはないと思うのだけれど、書かないとことだまは入ってこないので、日本語文は現在よりもカナ的になるのではないかという気がしている。ひょっとしたらカナ主体の日本文にアルファベットが日常的に混ざりこんでくる文をつかう人がふえるかもしれない。カタカナ3割、ひらがな3割、残りをアルファベットと漢字で半々、といったふうに。
そういえば明治期にローマ字教育を訴えた人がいたはずだが、そろそろこのへんもあたっておかないと。そして内村鑑三もまだちゃんと読んでいないのをいまになって急に思い出した。これも先輩にいわれて10年以上経っている。
つくづく、することはたくさんある。