ぶら下がり日誌~ボルダラーへの道~

釣りときどき岩、そして

吹流

 モーゼは人々を連れてエジプトを出たのち、ユダの荒れ地で40年過ごした。約束の地であるカナンに入るのは、モーゼの副官的存在であったヌンの息子ヨシュアが指導者となってからである。

 

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 よく知られている対処法だが、職場に嫌いな人間がいたら文字通り距離を取るのが有効である。物理的距離と心理的距離はつながっているからだ。ただしこれをすると相手を好きになれるチャンスもまた少なくなることは留意しておく必要がある。

 

 これまたよくいわれることだが「10人いたら1人はあなたのことが大好きで、1人はあなたのことが大嫌いで、残りの8人はあなたに何の関心も持っていない」というのも法則と考えてししつかえないと思う。組織に勤めて10年以上たって、嫌いな人間が10%どころですまない場合は、さっさと転職したほうがいいかもしれない。異動によって共演NGな人間とおなじ部署になる可能性が高すぎるからだ。

 

 しかしながら、収入の面では、多くの場合しがみついたほうが得である。皮肉なことに旧態依然とした組織ほどそうである。

 

 転職によるキャリアアップは魅力的に響くこともあるが気をつけろ、そんなのはまやかしだ。この国の雇用がほんとうに流動化する日はまだまだ来ない。人間が幼少期に受ける教育は呪いであって外すことはできないから、どんなに急いでもひと世代はかかるのだ。

 

 冒頭のモーゼを思い出そう。彼は奴隷であった世代がいなくなるのを40年も待ったのである。

 

 

 

ど次元

 強いて言えば子育て自体がリスキリングの一種だと思うのだけれどどうだろう。

 

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 筆者は吉田健一もどきを気取ることはできても石川淳のようにはどうやっても書けそうにない。こういうのは体質の違いとしか言いようがない。

 

 井伏鱒二がどこかで言っていた通り、書けば書くほどある種の調子が出てきてしまう。とくに随筆はルールが緩いせいかそうなりがちだし、そうなったほうが楽なので、実際にそうなってしまう。ギターの手癖となんら変わらない。

 

 このところ毎日なんでもかんでもなにか書いていたら、たしかに文の中に一定の調子が出てくるのが感ぜられた。構図からというよりも、調子の方から文体を考えていく方が、性に合っているのかもわからない。

 

 手癖を嫌がるというより、そこから抜け出すというより、手癖をどんどん更新していけばいいような気もしてきた。自分が読みたいものを書き、聞きたいものを弾きたいのだから、自分の気に入らないものよりも、気に入るものをどんどん取り入れた方がいいように思えてきた。弱点をいかに克服するかというのはまた別の問題である。

 

 なんでもかんでもバランスでは面白くないものな。それでは聖人だ。なれないし、なっても聖人だ。あまり真剣に目指すのは私にはできそうにない。

 

 以上、定期連絡。