Equilibriste

 冗談話をひとつ。

 

 動的平衡、謎を解く鍵はおそらくこのへんにある。人間はどのような刺激に対しても適応する動物である。その適応力の高いことは地球上の人口の分布状況を見ればうなずける。

 

 それである種のトレーニング理論によると、この適応の高さゆえ、同一の刺激をあたえつづけると体が完全にそれに適応してしまい、一種の停滞(プラトー)をまねくという。このプラトーというのがすべてのアスリートに共通の悩みの種であり、いまのところその決定的な打開策は見出されていない。

 一策として、サイクルを区切って異なる刺激をあたえつづけること―トレーニングの世界ではピリオダイゼーションと呼ばれる―、いわばこの人間の適応力を逆手に取るようなかたちでプラトーを打破しようとするらしい。

 

 ここから話をひろげると、人間生活そのものがじつはこの原理に則っているのではないかと考えられだし、そうすると幸せや満足が長続きしないのは当然で、それらは定められたものではなく一時の状態にすぎないから、いずれ停滞期にその座を譲らざるを得ない、とこうなる。

 

 ここでようやく話は最初に戻ってきて、大方の我々にとって目指すべき状態であるところの人間の幸福、それが一時の状態であるのなら、飽きるたんびに新しい刺激を加えつづけてやらねばならんということになる。このことは、折角しあわせを得たとしてもそれが恒久的安定を意味しないことでわれわれを落胆させもするが、逆にいえばしあわせは求めれば案外得られるものである、ということもできるかもしれない。

 

 いずれにせよ、救いだの何にしても「これさえあれば全てOK」というのはやっぱりムリで、すべては動きのなかにたゆたっている、と見た方が妥当なように思え、流れ流されつつ我々は己の望むほうへ流れをたぐり流れに乗ろうとするのだろう。

 

 ここで話は分岐して、そもそも我々は刺激に適応するというより、進んで刺激を求める生き物なのではあるまいか、動的バランスとしてのしあわせを得ようとする我々の手立て(刺激を変えること)は、実のところどれほど実効性を持つのか、などと考えはじめてしまったが、その話はまた次回。