映画の話11

 『自転車吐息』(園子温、1990年)

 

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 起こしてはならないものを起こしてしまっている。理性が脆弱な感情に負けてしまっている。

 ウダウダを突き抜けるだけの力はない。ウダウダは解消されずに澱として沈み続けることであるし、また生きていくことはそれを引き受けることであるしで、ここから逃れようとしても仕様がないのだが、安易なショートカットとしての死、あるいは発狂が、のさばってしまっている。でもそこまでつっぱしる加速力もトルクもありはしないから、せいぜい自閉するにとどまる。救いのない、悲惨な状態だ。

 

 「居場所がない」と言いながら、実は居場所なんてどこにもないことを引き受けられない、ないものねだりをいつまでも続けたい、それをある種の人々は「青春」と呼ぶみたいだが、だとしたらこれほど腹立たしくてはた迷惑なものも一寸ない。あまりにも簡単な浪費。本当のイージーゴウイング。

 

 ウダウダは豊穣なイメジャリを生むが、それは諦めと受容の上に成り立っていなければならないし、またそうでなければすぐにほどけてしまう。