世わたり学

 若者―助けてもらい、甘やかしてもらい、あと押ししてもらい、引き立ててもらうことを絶えず要求する。

 

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 「納得があらゆるものに優先する」というのは、パンクにおけるスカルのようなものだ。それはイデアであり、現実はグラデーションである。自分の納得ばかりを優先させていたら、かんたんに独りよがりになってしまうし、それでは本人の満足も、じょじょにちいさくなってしまう。

 

 いっぽうで、まわりの納得をかんがえないと自分の納得をかんがえられないというのは、組織人のおちいりやすい症状である。スターやアイドルに顕著なように、ファンの支えでなりたっており、それで周囲もうるおっていて、決断が自分ひとりのものでなくなっているケースもあるだろう。

 

 小市民の一員としては、じぶんの納得ありきでスタートしつつ、そのつどまわりの顔色をうかがうという、日和見な態度をとってずいぶんになる。まるでパンクしていない。控えめにいってバツである。

 

 せめていうなら、自己満足でいい部分と、そうでない部分で、はじめからバランスをもとめていくのは保守だが、結果的にバランスするのは保守ではない。野球でいえば、スリーツーから置きに行って単打を打たれるのと、ストライクゾーンぎりぎりを狙って結果的に歩かせるのとでは、おなじく走者一塁でも、中身はまったくちがってくる。

 

 なんせ、つまるところ塩梅になるのである。得意をのばせというのは、一点突破できる領域はそれでいいが、複数の要素で構成され、総合力で長期的に勝負していくものについて、一点豪華主義は通じにくい。弱い環の法則が適用されがちである。

 

 そのへんの見きわめがつくようになるには年月を要する。世のなかはわれわれの希望に反して苦手と向き合わねばならぬようにできているので、学校などで苦手をやらされるのは、いい訓練になっている気がする。

 

 なんのかんのといっても、苦手を苦手として向き合うことは必要だとおもう。なんでもポジティブにおきかえようとしすぎると、欺瞞めいてしまうから。これも塩梅か? そればっかりだyo!

 

 

P.S. カントリーマアムがちいさくなった気がする。気のせいかもしれないが、そのように感じるのが世知辛い。