Teaching should be such that what is offered is perceived as a valuable gift and not as a hard duty.
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めちゃくちゃなことをいうと、多数派の賛成によって承認されたことを先例として、それをまねしているだけというのは、道理ではなく、理屈にすぎない。アインシュタインは「常識は18歳までに身につけた偏見の集積にすぎない」というようなことばをのこしているが、似たようなことではないかとおもう。
なんでもかんでもひとが通った跡をつかうのは、いわばラッセル泥棒である。それで効率よく山頂へたどりつけるかもしれないが、登山とは本来そういうものではないし、生活上のたくさんのことがらは、みながそうしているからといって、正しいとはかぎらない。
もっとも、ひとにうしろゆびをさされにくいというのはあるかもしれない。じつはそれが主たる理由かもしれない。嫌だよ俺そんなの。
おもうに、文化とは行きかたであり、行きかたによって培われる教養である。したがって、むちゃくちゃなことをいえば、教養とはそのひとの性能である。それを語るのがユーモアであり機知であり、エスプリでありウィットであり、それらは余裕からうまれてくる。ほんとうかyo!
臨機応変にできるのが教養、その手まえが知識、ということでおわっておこう。アディオス!