ある日の厩舎

 親しいひとがあなたに控えめな怒りをあらわしたときは、気をつけたほうがいい。その問題はあなたがおもうよりはるかに根ぶかいから。

ードクトル・クロコフスキーー

 

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 「でも」とそれに類する語を控えるようになってからずいぶんたつ。

 

 このままでいればいるほどラクになるとあっては「これでいいんだ。このままで正しいのだ」とおもってしまうのも無理はなく、はじめのうちに苦労したひとならなおさらである。世のなかの多くのことがらは考え方しだいであるから、たとえば毎日の判で押したような労働も「組織によって管理されることによって規則ただしい生活が送れ、羽目をはずさずにすんでいるのだ」と、自分の意志力を卑下して組織を崇めたてまつることもできる。

 

 じっさい、さまざまな面で保障されていることは事実だし、自分の意思で節制をつづけるのはむずかしいといえばむずかしいといえるのかもしれないが、それだって程度の問題で、見方をかえれば己の生活さえ自分できめられないものは人間以前であるともいえる。

 

 かんがえてみれば、こうやってオフィスでものおもう暇がある時点で上から怒鳴りこまれそうでもあるが、これも仕方ない。なべて組織とはそうしたものである。監房で著作をものする人間が後を絶たないが、気持ちとしてはわからない気はしないではない。

 

 ・・・などと10年まえに書いていた。虜囚の身、などとうそぶいたら右から左から殴られるかもわからんな。

 

 ひとまず現体制はワークライフバランスでもワークアズライフでもなくワークワークワークと判明した。いればいるほどツラくなりそうだ。

 

 やれやれ、連絡おわり。