雲の上のホステル

 この国では神さまが世間にまでおりてきていると考えると、わかりやすくなるかもわからない。何が?

 

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 先日、子の1才祝いで家族がさぬきに集結したとき、義父がエルサルバドルはシャングリラ農園の豆をお土産にくれた。このまえのんだパラダイスブレンドに似た系統の味がしたが、気候のせいか気のせいか、要継続確認。そもそもエルサルバドルってどこにあるんだ。

 

 なんせコーヒーも日本酒も、辛口でも甘口でもない、旨口めいたところがほしい。香りはないとこまるが、つよい香りは飲みづかれを招くだけだとおもう。「つかれるまで飲むな」というはなしを酒のみにしても意味がないのはいうまでもない。

 

 というより、そんな酒のみがこうもパッタリ酒をやめていることじたいが、かんがえてみれば奇跡的であるような気もする。酒がなかなかやめられないというひとは、依存ではあっても中毒ではないことがほとんどであり、ドラッグである酒に依存するのはしぜんななりゆきなので、自らの意志の弱さを気に病んでいるひとには「その必要はない」とだけいっておきたい。

 

 極端な話、こういうひとの100人に99人は、刑務所に2週間ほうりこまれたら、完全に素面になるとおもう。離脱症状に耐えざるをえない状況におかれれば、酒のほうで勝手にはなれていくので世話はない。

 

 そうやって酒の神さまの寵愛をうしなった人間がどうなるかについては、目下実験中である。いまのところバチがあたる気配はないが、このあとどうなるか知れたものではない。

 

 もっとも、中江藤樹が「神や仏は人が助ける」といっているとおり、バチがあたるというのは、ひとがバチを加えるのである。そういう意味では、ひとが信じたり拝んだりしているものを、むやみにつつかないほうがいいのかもわからない。

 

 そうなってくると、酒をのむものまないも、結論は「好きにせい」ということになりそうである。私も、落着いたらまたのむかもしれないし、のまないかもしれない。どっちなんだい。

 

 兎にかくカネ、カネである。以上、連絡おわり。