崩壊の気風

「狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出す者すくなし。」

 

―ジイド、もしくは福音書、だったとおもう。わすれた。

 

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 腐敗した状態を永続させようという空気が醸成されてしまっている。いちどわるいことをすると、わるいことをしつづけざるを得なくなるし、ウソをつくと、そのウソをかくすのにさらにウソをつかなければならなくなる。それとおなじだ。


 だから、といってはいけないのかもしれないが、善悪についておもいなやむのは無駄ではないかとおもうことがある。ひとは自分にとって価値があるとおもうことしかできないし、それは各人の徳によってきまり、徳は教えられないものであるとプラトンがいっている。われわれがどこまでもお互いによく理解し合うことができないのは、ひょっとしたらそのせいかもわからない。

 

 革命が成功したら革命家たちは支配者がわになるが、そうすると支配者だったひとびとを支配しなければならなくなる。もともとの支配が気に入らないから革命をするのだとしたら、これではうまくいかないだろう。

 

 だから、といっていいかわからないが、革命家はきまって独裁者になる。もとの支配者たちをみなごろしにして、そのせいで人望をうしない、失脚するか、あるいは弑される。組織は頭をうしなって、民衆は混乱のなかをますます困窮することになる。


 じょじょにわるくするのもきゅうにわるくするのもかんたんなのに、じょじょによくするのもきゅうによくするのもむつかしい。きゅうによくすると革命につながるので、このなかに採用できる結論があるとすれば「じょじょによくなる」しかないだろう。

 

 それぞれがすこしずつよくなって、その結果として全体がよくなる。スーパースローな革命であり、もはや別のことばをあてたほうが適切である。「Kaizen」とかそういうの。

 

 こういうのは不用意に呼びかけるとリーダーにされてしまうのでバツである。SNSフェイクニュースをひろめるように、善きことをひろめるのは無理なので、やめたほうがいい。全体というものはいつでも勝手に変わっていくしかないのである。

 

 はなしを組織に敷衍するなら、上司が何をするか、何をいうかではなく、どのようにするかを見ればいい。手段が下劣なのはバツなので、はなれたほうが賢明である。

 

 これもまたどうしようもないはなしだが、どれを選んでも、なんらかの不正に与してしまうことにはなるのである。それをわかったうえで、自分にとって価値のあることをする、そういう順序にならざるを得ないのではないかとおもう。理想状態や白紙状態は机上のもので、それを想定することは大切だろうが、ひとが生きるのは雲の上でも紙の上でもない。

 

 むしろ、そうした選択を絶望や後退ととらえ、流されるにまかせるというのが、もっともらしい、しかし怠惰な態度になろうかとおもう。以上、連絡おわり。