自分の不幸を語っているようで、聞き手の不幸を気づかせる。身につまされる、ということだが、これだと不幸が連鎖するので、自分の幸福を語って他人もハッピーにする方式でいこうとしている。うまくいっているか知らない。
自分で自分の機嫌をとる。自分で自分ごのみの状況をうみだす。つまるところそれが自分にとっての仕合わせである。オイいま自分ってなん回いった?
さておき、自分の資質というのは、そんなにすぐにわかるものではない。それを見極めるには、成長する必要があるからだ。すぐれたメンターにつけばそうした可能性はすこしはふえるものの、見誤ることもあるので、どちらがいいともいいにくい。
10代のうちから自分に勝負できる何かがあるとおもうのは、いかにも10代らしい夢想であるとともに、典型的なトラップでもある。今日びSNSによって隣の芝生はかつてなくすぐそばに見えているけれど、依然として蜃気楼であることにかわりはない。成功がすぐに訪れないとわかると地味で地道な前進などすぐにおっぽりだしてしまう、それもまた10代である。
だから下の世代に強いていうことが何かあるとすれば、していることを手放さないということにつきる。つけくわえることは何もない。
情報は増えるし技術もすすんで便利になるいっぽうなのだから、世代がくだるにしたがって、じょじょにわがままになっていくのは自然のなりゆきだとおもう。「ちかごろの若い者は」ということばは古代ギリシャのころからあったそうだが、あたりまえのはなしで、それは何よりもまず、何かが進行していることの、ほとんど唯一の確実な証左なのである。
以上、連絡おわり。