われわれはみじかい生をうけているのではなく、われわれがそれをみじかくしているのだ。
―セネカ―
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将来に向けて何かするとき、ややもすると先送りになるし、そうでなくても、ことを先へひきのばすのは、いまの生活を遠くへほうりなげているようなものである。あとで得するように、あれこれ頭をつかって走りまわって、ますます多忙になっている。
聖書のいうように、先々のことをおもいわずらうな、である。あるいはトルコのことわざにあるとおり、明日できることを今日するな、ということでもあるかとおもう。
いままさに何かしようというときに、それがもたらす結果についておもい悩んでもしかたがない。それよりは自分のしていることに集中したほうが、いい結果がもたらされることはおおいとおもう。こういうのはセルフハンディキャップの一種というか、無意識にいいわけをさがしているだけである。
これは岩登りでもおなじことで、登るためのムーブを練習することはできるが、天候はコントロールできないし、岩の状態もこちらでは決められない。
フロー状態になったりゾーンにはいれたりというのは、じっさいはそれほど大きな問題ではないとおもう。それは目ざすものではなく、結果的にそうなるものであり、仮にそういう状態になれれば、得がたいことではあるだろうが、いつもそれを目標にするのは、正直いってどうかとおもう。「ゾーンに入れないとすぐれたパフォーマンスができない」とおもいこむほうがよほど危険である。
むしろ、集中できないとき、苦しいときに一定のパフォーマンスができることのほうがはるかに大事である気がする。もっている知識をつかって、そのときそのときの状態を観察し省察し洞察し、自力でパフォーマンスを引き上げようとがんばるのが勝負ごとの眼目であり、ゾーンやフローはその福音というか、おまけみたいなものではないかとおもう。
なお、この国の民のおおくは程度の差はあれブッディストなので、自力のニュアンスがある「入る」より、「なる」ものであるフローのほうが、ことだまとしては親しみやすいのではないかとおもう。
なんのこっちゃわけわからんくなってきたので、おわりにしよう。アデュー!