喚起的な現実をつねに発見し、それに触発されてじぶんをみつめていく。自己とは触媒なのだ。
―ドクトル・クロコフスキー―
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結局のところ、幸福について書くと、どうしても不幸じまんか幸福じまんになる。しあわせは感じて、観じていればいい。語る必要はないし、論ずる必要もない。しあわせを追うと早晩どこかで追われることになるので、不幸に耐える手立てとして幸福術を練るほうが、幸福論をよんだり幸福観をさぐったりするより、実践的なのではないかとおもう。
私は、幸福とはつまるところ張り合いではないかとおもっているが、「だからどうした」である。こうすべきだとか、役に立つだろうとか、決していいたいわけではない。提案しているわけでもない。もしかしたら役に立つかもしれないが、そのために書いているわけではない。
ひとにはそれぞれ行きかたがあるし、おなじ人間でも、時がたてばかわる。人間、生きていればかんがえはかわるものだ。ひとのかんがえはアイディアがあつまって醸されるものにすぎず、あくまでおもいつきの延長ではないかとおもう。AIはどうか知らん。
ひとの好みは無限に多様で、それにもとづいて各人が行きかたを練るというだけのような気もする。そこに哲学が醸成されるかどうかまでは、例によって筆者の知るところではない。
以上、連絡おわり。