自分時分

「デスクトップの乱れはこころの乱れ」

―ドクトル・クロコフスキー―

 

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 復帰後の発見。世代交代によって、年功も序列もなくなってきている。単純に肩書だけでひとを見るようになっている。指示されたこと以外はもちろんしない。雑用などするはずもない。

 

 それを肩書のないひとが指摘しても聞かないどころか噛みつくし、上司が諭してもなかなか聞きいれない。この種族には雑務の意味がわからないからだ。たとえ説明されたところで、最短主義の頭には受け容れられない。

 

 したがって、自己主張はしぜんとつよくなる。それぞれが自分の文脈のなかで暮らし、職場においては表層で響きあって反応する格好になる。仕事とプライベートが切り離されているか、あるいは仕事にプライベートが浸食されて、純粋に表層をただようかの2択になっている。

 

 当然、周囲への関心はうすい。関心があるとすれば、自分が上層部からどう評価されているかだけである。自分の好感度をあげることには関心があるが、それが自分の趣味に合わなければやらない。だからやっぱり雑用はしない。

 

 自分が外出したのか中座したのかわかるように机上にペンを置いたり、自分がいないときに書類をみつけやすいよう机上をきれいにしておくといったような、むかしながらの発想はない。まわりの働きやすさをかんがえないというよりは、はなから考慮の外である。

 

 悪意なき飽くなき自分中心主義、この種族が老境にはいったとき、どのように身を処すのか興味ぶかい。節制して、できるだけながくウォッチしていこう。

 

 以上、連絡おわり。