けっして中心にすすまず、端のほうをまわることだ。中心を目ざす者はまよう。周縁にとどまれば、ふちの部分が、道路の白線のようにガイドになってくれる。
―ドクトル・クロコフスキー―
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ふしあわせなときにおもいつくのがしあわせのことである。幸福論を手にとるのは、自分をいくらか不幸とおもうときであろうとおもう。迷っているときに自己啓発本を読むようなものである。
自己啓発をしようとするとたいていは迷う。自分さがしとおなじで、さがせばさがすほど迷うようにできている。同様に、幸福をあまり追いもとめると、不幸になるようになっている。
これらと正面からぶつかっても勝ち目はうすい。ひとのしあわせをみて「私もがんばろう」とおもえないときは、しあわせをできるだけ頭から追いやるしかないようにおもう。ふだんの暮らしに感謝し、それがむずかしければ、何かに集中するなりからだをうごかすなりして無になる。それもできなければさっさとフトンをかぶって寝てしまう。
それもムリなときどうすればいいのかまでは、私にはわからない。そういう状態になるまえに対処したいとしかいいようがない。老子曰く「大きなことはそれが小さいうちに処理せよ」である。
すでに大きくなってしまったことに対しては、「小事ほど慎重に、大事ほど軽くとりあつかう」―出典はたしか『武士道』だったとおもう―ようにしているが、これも合っているか知らない。というより、つとめて深刻にふるまわないようにするくらいしか、できることをおもいつかない。
以上、連絡おわり。