水の泡、日々の泡、栓

 「ものをつくる人間が自分の作品を批評するのは衰亡の兆候だ」(『ラーメン再遊記』より)

 

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 図書館のブックバンクから『GRIT』をもちかえって読んでいると「さいしょからうまくできなくても、なん度もトライしなさい。なん度トライしてもダメだったら、やりかたをかえなさい」という文に行きあたった。クライミングとおなじである。

 

 この種の本は迷っているときに読むものなので、ブックバンクで見つけて読んでもそれほどピンとこなかった。そういうことってある。

 

 つまるところ才能は要領のよさとはちがうということではないかとおもう。要領のいい才人もいるだろうが、あくまで両者はべつものである。才能のなかでも天才というのは生まれもった高い身体能力や記憶力などの類をさすのではないかとおもっているが、このような感覚的な発言にはとうぜん、なんの信ぴょう性もない。

 

 ついでにいうなら、才能は不器用と執着からできており、とくに執着のかたちはひとそれぞれである。

 

 才能のうち生来のものが天才であり、それ以外は努力と継続からできているということを、希望をこめていいたかっただけである。あっているか知らんよ。

 

 ついでにいうと、苦労が水の泡、というような感覚をもたねばよいのではないかとおもう。苦労が多いほど、結果を積み上げたくなる。しかしながら、結果を得たいとおもうその気持が、ほかならぬ結果から自身を遠ざけてしまう。

 

 いいかえると、修業中に成果を求めてはならないということだろう。計画するときに塩梅するのは大事だが、修業しているときは無心になる。積みかさねに寄りかかってしまわないように、つねに行為に集中するようこころがける。

 

 精進の結果がすてきなことになっていれば、まわりがそれと知らせてくれるので、わざわざ自分で確認する必要はない。冒頭に引用した『ラーメン再遊記』の芹沢さんもいっているとおり、自分のつくったものを自分で解説するのは、衰亡のきっかけとなるおそれがあるとおもう。

 

 以上、連絡おわり。