計画的計画

 前回のつづき。

 

krokovski1868.hatenablog.com

 

 加齢をうけいれられないというよりは、たんに成長できていないだけである。とにかく修業はしなけりゃバツだ。己を制御できるようになるには、ツライ局面にあたるほかはない。

 

・強制的に現状を認識して、危機感をもつ。たとえば、むかし履けていたジーンズが入らない、岩を登ろうとしても一手もできない、そもそも岩場に至る坂道を自転車で登れない、など。

 

・己にたいする期待値をコントロールしようとしない。己に期待しない。結果に期待しない。デタッチメントしてマシーンになる。

 

・練習のハードルを下げる。まえよりもかんたんなところからはじめる。強度のひくいところからはじめる。フィジカルをもどすのに失敗してしまうなら、種目をもっとかんたんにする。

 

 ただ、これだと、継続が習慣化しても目標達成できないということになりかねない。懸垂を毎日10回しても、マッスルアップはできるようにならないし、腹筋を毎日100回するだけでは、フロントレバーはできるようにならない。

 

 計画をもっていることじたいがたのしいものだから、それで満足してしまうのかもしれない。夢やロマンを追うというのとおなじである。計画をしていること、夢に向って何かをしていること、それじたいで充実できるというのが、計画することのメリットであるとすらいえそうである。

 

 夢やロマンを理解しないひとは、そもそも計画というものにあまり興味がないのかもわからない。ああでもあろうか、こうでもあろうか、というようなはなしには意味がない、仮定のはなしには興味がないというひともいる。いろいろだ。

 

 そういうひとが数値を信奉すると始末がわるい。自分の文脈のなかで論理的にただしいとおもうと、ひとはそこからでてこなくなるものである。なんのはなし?

 

 ・・・とにかく岩のまえでは虚飾や虚勢が無意味になることはたしか。さっさとでかけてこよう。以上、連絡おわり。