さむくてさむくてさむかったけど、サンダルのまま、散歩した。
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哲学的な問いの趣旨は往々にして明確でない。それが明らかなら、解決されているからだ。まるでことばあそびのようだが、そうである。
したがって、問いがイマイチだと.議論は曖昧模糊としておわる。よりよい問いを立てるのが哲学者の役目のひとつとされるのはこのためである。
仮に問いがすぐれていても、やはり趣旨は曖昧なので、何について論じているかを正確に把握できないまま、問題に取り組んでいくことにはなる。外からはまるでことばあそびのようにおもえるのはそのせいである。
めちゃくちゃなことをいうと、哲学者というのは理論物理学者と似て、世の理をときあかしたいという種族なので、へたすれば数千年かけておなじ問いを発しつづけている。答えのでないことをかんがえつづける知的体力はどんなときも必要だとおもうが、好きこのんでそうしているのかどうかまでは知らない。そもそもかんがえている状態が好きなひとたちなのかもわからない。
それで「自由とは何か」というはなしなのだけれど、これもひとつの問いのようにみえて、それじたい錯綜した問題系をあつかっている。さまざまな問題がそこに含まれているのだが、個別にあつかうとタコツボにはいってまわりがみえなくなるから、やはり細部をペンディングしたまま、はなしをすすめるしかなくなる。ひとは右を見ながら左を見ることも、ちかくをにらみながら遠くをながめることもできないようになっている。
自由の意味の核心のひとつは選択できるかどうかであるが、それはひとつの要素にすぎない。そればかり見ていると罠にかかる。
同様に、自分の意思でそうした、という点にかんしても、需要は供給が生むものであり、広告を見ればほしくなくてもほしいとおもわされるし、アルゴリズムは意思を先まわりするし、ある種の身体の反射は意思の伝わるまえに起こるしで、どれもこれも怪しげである。
選択は幻想、意思もあやつられている。となるとどうなるドラえもん。