万年筆の効用

 硯海に波をおこし、筆端に黒雲をよぶというような、詩的で悠長な態度は、パンクというよりはただの懐古趣味であり、懐古趣味というよりは外連であろう。

 

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 気の合わなかったものが時をへてふとなじむことがある。そこまでながくものをつかうことがなくなってきたせいか、たまにこういうことがあるとうれしい。万年筆のはなしである。

 

 とはいえ、ちょっとでもペン先をしまいわすれると、もういけない。とにかく書きつづけないと先方が承知しない。むかし『スピード』という映画があったが、それと似た状況である。とにかくこのひとの気分にあうように書きつづけなければならない。機嫌を損ねるとたちまちインクがとまるのだ。

 

 よって、つらつらと綴っていきがちになるし、かすれづらい運筆をしようとするから、仮名づかいや語の選択まで影響をうけだしている。

 

 連綿とした文体、などというときこえはいいが、紙のうえをイトミミズがのたくっているだけである。もっとも、ことばよりはイトミミズの次元で表現したほうが適切な感情なら、このほうが似合いかもわからない。

 

 そんなわけで万年筆の調子は過去最高にいいが、乾くとインクフローはおそくなるし、油断はできない。キャップをしめればよさそうなものだが、またすぐに書こうと中座するときがあぶない。もどってきて「さあ書こう」と勢いこんでインクがでない。こうなるとアイディアなんかどっかへとんでってしまう。

 

 書くことはもはや贅沢になりつつある。じっさい、かすれない頻度で書こうとすると、カートリッジにかかる費用が、業務スーパーのコーヒー代にちかづいてきてしまう。とはいえ、つかうときめたからには、しばらくこれでいってみよう。

 

 そういえば、村上春樹が作家のタイプを「スイスイ系」と何ちゃら系とにわけていて、自分は明らかにスイスイ系である、というようなことを書いていて、出典をここ数年さがしているがいっこうに見あたらない。手もとに本を置かないとこういうときに困るんだよな。

 

 以上、経過連絡。

 

P.S. 染料インクをつかっているが、水によわいのはたしか。さりとて顔料インクは詰まりそうだし、そもそも他社のインクをつかうと保証されないという、ややこしいことになっている。これも要継続研究。