「動機の言語化か・・・・・・余り好きじゃないしな」
―クロロ=ルシルフルー(『Hunter × Hunter』第12巻)
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「なぜそんなことをしたの?」と問うてもあまり意味がないとおもうことがある。「そうしたかったからだ」といわれて、それでおわりになりかねないからだ。それだけでは何もいっていない、とまではいわないが、重要な何かがこぼれおちてしまう。
「なんでまたそうなっちゃったの?」とか「どうしてそういうことになっちゃったの?」と訊ねたほうが、まだマシな気がする。その行為の何に、どこに、ひきつけられたかをさぐったほうが、まだ核心にちかづける気はする。しかしながらこれも気休めにすぎない。そういうものだ。
なぜというに、「なぜ」をかんがえると足がとまるからではないかとおもう。習いおぼえたステップを踏めなくなる。無意識が意識化されてしまう。自動化がほどけてしまう。
いっぽうで、われわれは自動人形ではないし、傀儡でもない。われわれは自動と手動のミックスでできており、その自動化も、ほどけてはまたべつの行為が自動化されるということをくりかえしている。
ひょっとすると、自動化と意識化の生成のダイナミクスが、われわれの生の諸相の一部をなしているといえるのかもしれない。なんのはなし?
あるいは、意識しているかはさておき、ひとによっては、自動化するという方針にもとづいて計画している可能性もある。みずからの反省的性格におしつぶされないよう、動物性を再確認するためにそうしているのかもわからない。
それとはべつに、理由をこたえさせてもしかたがないとおもうのは、本人が理由とおもいこんでいることがあるからだ。だから、というべきかわからないが、行動の理由をかんがえたり、さぐろうとするのは、ほどほどにしておいたほうがいいのではないかという気がする。それはおこることの予測や、自己理解の手がかりにはなるかもしれないが、それ以上にはならないのではないかとおもう。
そんなわけで、アクシオンディレクトというか、直接的行動というか、知行合一というか、そういう行きかたが生じてきたのかどうかまでは、わたしにはわからない。この手のスタンスでは、自己は語るものではなく、体現するものでもなく、行為そのものの最中にのみ勝手にあらわれるものだ、といっているようにおもえるが、合っているか知らない。
むちゃくちゃなことをいうと、さいきんでは、そのひとのことを知りたければ、何をいうかでも、どんなふうにいうかでもなく、はなしているときにどんな顔をしているかを見るだけでいいのではないかとさえおもいはじめている。何いってんだyo!
とっちらかりそうなので退散しよう。以上、連絡おわり。