万年筆と行く

 オノトのN号のファインかミディアムを触ってみたいが、さがすのはビンテージナショナルよりむつかしそうだ。丸善のオノトモデルならあるかもわからない。

 

krokovski1868.hateblo.jp

 

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 万年筆ばなしのつづき。

 

krokovski1868.hatenablog.com

 

 冬になってまたすこし調子がかわってきた。温度や湿度のせいなのか、たんなる経年変化かわからないが、キャップを締めづらい。インクフローも絶好調というわけにいかない。さぬきに来るまえ調整にもちこんだとき、ブティックのひとに「万年筆は生きものです」といわれたが、ほんとうにそうらしい。

 

 とにかくフローがとぎれないように書きつづけるだけである。いまのところ書きぐせを改めるつもりはない。

 

 たしかに、ペン先が紙に左右均等にあたるように書けば、インクはでやすいとはおもう。いっぽうで、インクフローに不満がないなら、無理に疲れる書きかたをすることはないともおもう。

 

 だからかえないし、なおさない。このまま書けるように文字のかたちを調整する。

 

 いにしえの文学者たちが、悪筆とまではいかずとも、みな個性的な字体をしているのは、筆記具のせいもあるのではないかと、いまになって気がついた。あのアーティスティックな字体は、彼らの性格のためだけでなく、インクの流れがとまらないよう、文字のほうを塩梅していった結果なのではないかとおもう。

 

 インクフローがとぎれるのはインスピレーションがとぎれるようなものなので、もの書きにとっては激痛のはずである。じっさい、星新一は、インクが不意にきれるのをきらって、残量のみえる万年筆をつかっていたという。

 

 つまるところ、万年筆は不便さをふくんだものである。効率的でも合理的でもなく、不快さものみこんでいる。

 

 翻って、いまの道具は手段である。だからツールというのだと、これもいまごろ気がついた。遅いyo!

 

 もっといえば、育ち育てられともに歩むもの、それが道具ではないかとおもう。そのうえ伝えたり伝えられたりできるなら、つけくわえることは何もない。

 

 以上、連絡おわり。