吐墨筆

 万年筆ばなしのつづき。

 

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 ペンもキーボードもフリックもなかったら、つけペンと毛筆しかなかったら、ものを書くひとはこんなにふえなかったかもわからない。かんたんに書けるから、書いてしまうのである。ことほどさように、道具の進歩があたえる影響はおおきい。

 

 日本の万年筆の黎明期といえば丸屋、のちの丸善である。丸屋をおこした早矢仕有的は、福沢諭吉の門下生のひとりだったそうである。

 

 丸善がだしている『万年筆の印象と図解カタログ』の復刻版では、万年筆の由来について、当時の文具担当であった金沢万吉氏からきているという説にかんたんに言及してはいるものの、「シカシ之は請合ひません。真の命名者が誰であつたか解りません」と書いている。むしろ、万年筆という名称は万年糊や万年酢のようにあまりいいイメージがなく、ハイカラな輸入品には拙くて不釣り合いであるといっている。原語を直訳した「泉筆」のほうがまだ似つかわしくおもわれるのに、万年筆のほうが字引に載るほど定着し、泉筆が旧時代的に響くようになった状況を不思議がる調子である。

 

 巷でいわれている、万年ながもちする、内田魯庵が名づけ親であるといった説については触れられていなかった。ちなみにこの本は初版が1912年で、復刻されたのは1989年である。

 

 資料によっては、内田魯庵が丸屋の顧問となって夏目漱石北原白秋にオノトをすすめた、と書いているものもあったが、魯庵のことをきちんと追ってみないと、詳細はなんともいえない。内田魯庵説はもっともらしくひとにはいいやすいが、裏はとれていない。

 

 ものの本によれば、どうやら江戸後期から、懐中筆、自潤筆、吐墨筆などといった、さまざまな品がつくられていたようである。墨に粘りがあるため、実用にはいたらなかったそうだ。このあとにスタイログラフィックペン(針先泉筆)が輸入され、万年筆にいたる、という順序になっていて、さきに泉筆という訳語をつかってしまったので、万年筆を泉筆とよべなくなったのではないかと推測しているものもあったが、これも真偽は不明。

 

 万年筆のネーミングについては、上述のほか、福井商店がだしていた「NY万年ペン」という説もあるものの、これも定かではない。『Fountain Pens――万年筆 Vintage and Modern』(アンドレアス・ランブロー著、すなみまさみち監修)によれば、1885年に東京の時計商であった大野徳三郎が、国産のスタイログラフィックペンを試作しており、これが萬年筆(まんねんふで)と名づけられていたという。このほかにも、如意軸ということばがつかわれたり、類似品にたくさんのネーミングがあったりしたらしい。

 

 内田魯庵とNY万年ペンについては要継続調査だが、つまるところ、いつとはなしになんとなく、というのが真相なのではないかとおもう。いったん連絡おわり。