不安は欲の裏である。いつもハラハラしてしまうのは、あれもこれもと欲ばっているからだ。
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趣味でもなんでも、自分をうつす鏡がふえるようなもので、ひとつチャンネルが余分にできて、それによってすこしらくになる。自分のなかにある不安をとおして、自身をチャンネルに投影しているあいだは、不安からすこし離れていられる。そういうものをいくつかもっていると安定しやすい。なんの話?
行動が感情をやしなう。不安や緊張は不可欠なものだ。それがないと向う見ずになって死んでしまうリスクがあがる。だから不安や緊張をなくそうとしても無駄である。そういうものだとおもうしかない。
したがって、不安や緊張のよい面をさがすようにつとめるとともに、とにかく手をうごかすのが実践的である。見ている鍋は煮えないので、そっぽを向いて仕事をする。感情はながれていくものだから、不安もそのうちにながれていく。
不安や心配もらせん状に発展していく。ふつうのことだ。「己の心配もここまできたか」とおもえるようになれば、だいぶ人間もできてきた、ということになるような気はしないでもない。どっちだか私にはわからない。
いずれにせよ、いつでも、いつまでも、じぶんのせまい経験を基準にことにあたるほかはない。したがって、つねにあたらしい知識の吸収につとめながら、実践し、フィードバックし、またトライする、そのくりかえしになる。
いち日のなかに自分で満足するものをみつけていく。そのくりかえしのダイナミズムをたのしみ、それがらせんを描いているのをみつめて、またたのしむ。それができればいうことはなにもない。
形式についていえば、不安に対処するために形式があるともいえる。形式、あるいは一定のリズム、もしくはルーティーンに身をまかせることによって、不安をわすれ、へらすことができる。
からだが単調なリズムにあるとき、アイディアがヒョイとでてくることがあるのも、不安に対処しているエネルギーが創作のほうに振り向けられるからではないかと自分ではおもっているが、あっているか知らない。
形式がほんとうに身についていれば、おのずからひらめくものがあらわれてくる。形式が主義にとどまっているうちは、こうはならない。意識が無意識化してはじめて、エネルギーが自由になって、なにかしら生まれてくるという順序になっている。
二項対立の相克というか、それを含みこむところまでいってはじめて、ひとはいっぱしになるのだろう。遠い。