ぶら下がり日誌〜ボルダラーへの道〜

子育て、仕事、パン、文具。ときどきファミコン。

それ

 はてなブログが記事の振り返りを提案してきた。じっさいに1年まえの記事を読むと、やはりというか、イマイチである。というより、毎日レベルで推敲の要のないものを書けたら、それはプロだわな。

 

 それで飯を食えるレベルにあればプロであり、それで見知らぬひとから拍手をもらえるが、暮らしていけるほどでないのはセミプロであり、たまにしか拍手をもらえないのはアマチュアであり、それ以下は素人である。ほんとうかyo!

 

 腕前だけでなく気構えもある。何かを学んだり追究しようとする態度、こだわりといってもいい、そういうものがなければ、プロらしいプロとはいえない。見方をかえると、じっさいにそれで飯を食ったり、ずば抜けた実績をだしていても、心構えはアマチュアということもありうる。

 

 いってみれば、スポーツマンシップとか、ミュージシャンシップとかいうときの、あのシップである。精神とか、気風とか、気質とか、そういうもの。意識高い系と何がちがうのかといわれてもこまる。だいぶちがうような気もするが、意外とかわらないかもわからない。どっちなんだい。

 

 自分のしていることに責任をもっており、それがまわりにあたえる影響をかんがえて生きている、そのあたりにプロ的心性の核がひそんでいるような気がする。べつないいかたをすれば、プロを語るとき、腕前は前提である。

 

 同様に、プロの行きかたに触れて、その道においてその高風にうたれることはあっても、そのひとの人生がすべてそれで成り立っているわけではない。君子といえども人間である。いたずらに理想化しないことだ。

 

 そういう意味では、いつでも等身大でいられるのがアマチュアイズムであるということもできるかもしれない。腕前にかかわらず、そのことへのこだわりが、そのひとの張り合いになっているような行きかた。それをしているとき、自然で心身ともに軽さをかんじるとき、それを大事にする。ずっとつづけられているものがあれば、それを大切にする、そういうことのようにおもえてきた。

 

 プロっぽいアマというのか、適切な表現をおもおもいつかない。はてなブログをproにするころにはおもいつくだろう。

 

 以上、連絡おわり。

 

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