生きることは日常の重さを引き受けていくことだし、引き受けなければそれはそれでプレッシャーをうける。背負ったら背負ったで重いし、背負わなければどこからか足をひっぱられるようにできている。
ひとによって重さの内実がかわるだけだ。荷を意識していないひとや、つとめて軽くしているひとなど、いろいろいるが、いろいろいるからといってどうなるものでもない。
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ひとは既得権益を手ばなしたりはしない。入るところをまちがえたら、その場を自分好みにかえるか、さもなくば出ていくかで、入ったところが組織なら、どちらもだいぶむずかしい。
組織がかわらないのは政治がかわらないのとかわらない。かえようとする力にたいして、そのままでいたい力のほうが大きすぎるのだ。
かえようとする力を結集するだけでもむずかしいのに、それをあつめているあいだに、かえようとする相手も、どうかえるかも、すこしずつかわっていって、かえようというひとりひとりもかわっていって、気がついたら当初の目論見とはまるでちがうところへおしながされてしまう。曰く「はかりごと遅々たればはかりごと変ず」。
ひとえに時の力だ。なかば自律的にうごいているようにみえる組織でさえ、しっかりと手綱をにぎられている。
とはいえ、時がすべてを支配しているといういいかたは、あるいは適切ではないかもしれない。そうおもうのは人間だけで、組織が意志をもたないように、時は支配しようとはしていないからだ。なんにでも因果を見出そうとするのは人間だけであり、見方をかえると、それだから世のなかはおもしろいといえるのかもわからない。
ひとと、ひとのつくったもの、それらの織り成す瞬間的、歴史的なパターン。大いなる流れのなかにいながらミクロでもうごいていること。さまざまなレベルでかかわりあい、影響しあっていること。
人生観などとおおげさにしなくていい。つまるところ自分をどうとらえるかというだけだ。ひらたくいえば、日々おもしろく生きるにはどう行くかというだけだ。
以上、連絡おわり。