この国はかつて平等主義だった。いまは民主主義になったのか知らん。
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年功序列はこの国の文化的体質だから、かえようとしたら教育システムからいじらないとならない。かるく3世代はかかる。
学歴にはいい面もあって、お勉強さえできれば生まれも育ちも関係ないというのがそれ。お勉強できる機会があたえられるかどうかというのは、それ以前の話だし、これが組織になると、態度がだめでも有休が多くても仕事ができればいいとはならないのも、また別の問題である。
そして、現時点で学歴はたしかに機能している。4年間の大学教育のレベル差というのはじっさい、あなどれない。人事の側からしても、新卒一括採用はたくさんの人材を効率よく確保できるので、これをなくすのはむずかしい。
というわけで、組織の人事制度をかえるのに、年功序列と、学歴を軸にした一括採用からいじろうとするのは、現実的ではない。さらにいえば、この国のそれは年功ではなく年齢序列である。功は考慮されない。能力や成果は評価するのがたいへんすぎるからだ。
同様に、序列主義も抜きがたい。概して、この国においては、実力よりも先輩・後輩の関係がひじょうにつよい。長幼の序をもちだすまでもなく、学校の部活動からしてそうなのだ。教育制度ぜんたいがそのようになっている。また、そうしないと組織生活がなりたたないようになっている。
序列はとにかくつよいので、先輩をとび越していきなり課長や部長になることはめったにない。せいぜい前後数年でぼかされるだけである。
謎の能力平等主義とでもいうべきか。むしろ終身と年功を説明しようとしたらこうなったとみたほうが近いかもわからない。そして「やればできる」と「いったんできるようになったことはできなくならない」は、組織運営における二大方便である。
とりわけ、旧態依然とした組織では、能力や実力や成果は評価されない。それはかえられないから、せめて根性ではなく、取り組みかたをみるようにすれば、それでよしとせねばならない。
というより、それ以外になおしようがないのである。なまじ成果主義をとりいれても、下手くそな評価しかできないから、部下が目立つことしかしなくなるし、職場のたすけあいもなくなるし、おたがいにますます孤立して、タコツボ化してしまう。
だからもう年齢なら年齢でかまわない。むしろ平等主義をすすめていったら、組織の在籍年数が功績になっても不思議ではない。この国ではこれを年功といっているだけの話だ。
年功序列のもたらす弊害のケアについては、中途採用と、スタッフから正社員の線に期待をかける。とくに中途採用向けに思いきった成果主義の賃金システムを用意し、年功の賃金制度も、それよりもきびしい賃金体系ではたらいているスタッフを登用するときにつかう。
そのようにして組織の同質性にゆさぶりをかけることにより、ようやく多様化がはじまって、種々の改革がすすんでいく素地ができていくだろう。
・・・などと数年まえに書いていた。タテ割りならではの自由というか、融通のききやすさに、当時は気づいていなかった。むしろタテを意識し、タテのよさを生かすことを考えたほうが、ヘタに仕組みをいじろうとするより効果的なのではないかとさえ思いはじめている。
以上、連絡おわり。