”Details make all the dufference.”
ーLeuchtturmー
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ライトハウスといえば灯台であるが、茨城県は水戸市南町3丁目にあったライブハウスでもある。いまもあるのか知らん。
ライブハウスというものじたい、流行っているのか廃れているのか、わたしにはわからない。クラブに侵食されているような気もするし、共存しているようでもある。どちらもほとんど行かないのでわかる道理がない。
茶館で功夫茶を喫してチルアウトはできても、クラブではできそうにない。ライブハウスでも立ちっぱなしがつらいので、すぐに壁際で座ってしまいそうである。
立ち飲み屋も同様に不可だし、なんなら立ち食いソバもつらい。歩きながら食べることはなくはないが、できるなら坐って飲食したい。足腰がどうのというまえに、向かないのである。
坐るにしても、カウンターでひとりはバツ。いるだけでつかれてくる。それだったら家でひとりでのむほうが世話がない。
他人と店に行くにしても、テーブルに向い合わせは好かない。並びで飲むくらいがいい。せいぜい2時間でさっさと帰ってくる。
そんな暮らしをかれこれ10年以上つづけて、育休を機に酒からはなれて、いまにいたっている。ごくまれにエビスを飲んでみるが、ほとんどからだがうけつけなくなっていておどろく。このぶんだと而今も飲めなくなっているかもわからない。
「から酒は空酒」という。じっさいに空酒になってみると、酒はすべて空にいたるためのものであると首肯されてくる。
こういうのは、もと酒呑みにしかわからない感覚であり、巷のソバーキュリアスにはいつまでもつかめないだろう。彼らは自らが依存症であることを認めたがらず、不安からそうしているだけで、酒を飲む以前に、現実から目を背けている。
酒はいまもむかしも合法的なドラッグであり、百薬の長である。飲酒が寿命を縮めるという言説のナンセンスである所以も、ソバーキュリアスには一生わからないだろう。
やれやれ、連絡おわり。