の季節がやってきた。ご多分にもれず、栗も品種がたくさんあるそうだ。筑波と利平くらいしか知らないが、もっとたくさんあるらしい。形や大きさ、食感、渋皮の具合、味、香り、糖度がそれぞれちがうという。
栗もでんぷん質なので、サツマイモやじゃがいもとおなじく、収穫してから寝かせれば糖度は上がる。凍る手まえでひと月ほど冷蔵すると熟成されるそうな。こんど獲れたらやってみよう。
さておき、就職祝いに母からもらったモンブランである。父からもらったものとおもいこんでいたら母だった。145か、もっと手がるな中級品とおもわれる。聞いてもおぼえていなかったので、たしかめられない。
安手のボールペンを愛用し、とにかく筆速をもとめていた当時の自分にはつかいこなせず、ながく放置していた。本部にいたころ、文具好きの上長に見てもらう機会があり、きちんと直してもらったほうがいいといわれた。ひとの万年筆で書くときに慎重さがもとめられると知ったのもそのときである。とはいえ、書きぐせがペン先に影響をあたえるといわれても、当時はピンとこなかった。
それでも耳にのこってはいたので、さぬきにくるまえ、ギターとともにメンテナンスすることにした。ブティックを訪ね、症状を伝えた。店員がルーペでキャップを見て、刻印の方式についておしえてくれたが、よくおぼえていない。
結果的に工房行きとなったものの、ペン先は無事という診断で、これといった原因もわからず、とりに行って試し書きしてもインクがでず、店員に書いてもらってもなかなかうまくいかず、往生した。若手のスタッフがバーテンダーのごとくペンをゆすって、なんとかでるようになったが、またすぐに書けなくなるにちがいないと、その場のぜんいんがおもった。
彼らは「万年筆は生きものです」といっていた。その意味がわかったのは、さらにあとのことである。
案の定、さぬきに来てまもなくインクはふたたびでなくなり、放置してますます書けなくなった。それが育児休暇を機に、身のまわりの品をすこしずつへらしていこうとしたとき、ふと目にとまった。もんだりこねたり、なでたりさすったり、なだめたりすかしたり、果ては風呂場の浴槽に漬けたり、あがいていたら、さぬきの気候がよかったのか、ある夏、突如としてよみがえっていまにいたる。
万年筆にかぎらず、手書きのいいところはスローダウンできることだとおもう。意味のある文章を書こうとするとき、PCやスマホをつかっていると、高速化すること、相互的になることからはのがれられない。それはそれでおもしろくもあるが、たまには好きなように書きたくなるし、描きたくなる。
そういうとき、万年筆は、染料インクをいれれば絵筆のように、顔料インクをいれれば仕事の署名にもつかえる。ホンマモンの筆記具である。
ひとは、万年筆をもった瞬間から、画家になれる。余人にはまねできない、独自のタッチがうまれるためである。
ペン先には一本ずつ微妙な個性があり、おなじ型番でも、書き手によってちがったふうに育つ。書きぐせがつくところも、ヴィンテージが重宝されるのも、ギターとおなじにおもえる。もった瞬間からオリジナリティが付与されるのも、おなじである。
モンブランとマーティンD-28、さらにいえば岩と自転車と釣りがのこった。活動を支えるフィジカルも道具であり、毎日手入れする必要がある。
エマソン曰く「人生は目的地ではなく、旅である」と書いておわりにしよう。Saravah!