恐れることはない。それというのも恐れるものがないからだ。
あるはずのないプレッシャーなど感じないことだ。だってないんだから。
いるはずのないものを想像しないことだ。だっていないんだから。
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想像力は他のあらゆる力と同様、使いどころが肝心で、四六時中発散しているのでは、じぶんにとっても周囲にとっても迷惑千万である。
能力というものは、気が向いた時のみ発揮されるのがよい。というより、常に放散しているのは能力よりはむしろアウラの部類にはいる。
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話したいことが思いつかなくても、とにかく話さねばならぬことはある。こういうのは「したい、したくない」に「べきだ、ねばならぬ」が勝っている状態で、このふたつは時ところによって揺れうごくから、いつでも気をつけて場を読まねばならない。
もっとも、場に応じて話すべき事柄は実はかなりな程度きまっていて、それに慣れるにつれだれでも違和感なく溶けこむくらいはできるようになる。ただ、その先のひかり輝くレベル―主人公クラスですね―となると、適性と得意不得意と鍛練と努力のうえにいくばくかの偶然がまぶされてようやく成立するので、だれでもなれるというわけにいかない。
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年を重ねるにつれ我々は己の性向を分かるようになり―むろん例外はある―、またすこしずつ所属を選べるようになるから、得意な場を選ぶことがけっこう重要になってくる。
人間の主たる構成成分は実力でも才能でもなく性格で、それは生まれながらおよそきまっていて可塑性の度合いも30すぎたらほとんどなくなっているのが通例である。
ゆえに人生のどこかの段階で苦手に見切りをつけることは明らかに必要で、しかし得意にばかり走っていては不慮の事態に対応できずまた人間の中身も淀むから―マンネリというやつ―、意識して少しずつ苦手に取り組むこともまた不可欠である。
コンフォートゾーンに閉じこもって暮らしていればいいように思えるかもしれないが―自分の防衛線内で生きること、それ自体はわるいことではない―気をつけろ、それはまやかしだ。Use it or lose it、常にひろげる努力をしてようやっと現状維持ができる、それくらいのものだと考えておいたほうがいい。
何せこういった話は最後には己をどれだけ知っているかというところに行き着いて、そのためにはとりあえず限界をプッシュするのがいちばんてっとり早い。
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と若かりしときに書いていた。いまは酒をくらって毎日ぐうたらをきめこんでいる。やれやれ、参るねえ。
