アマルガム

 私がものごころつくずっとまえに、その世界はすでに失われていた。それは、本や映画やその世界を生きた少数のひとのはなしを通じてのみ、かろうじてのこされていた。私はそれを夢中になってあつめた。その世界がまぼろしであると理解したのは、不幸にしてずっとあとのことだった。

 

***

 

 好いものはいい。やはりいいものをつかうのがいい。よくないものがもつ最大の欠点は、つかうひとをよくしないことだ。

 

 まにあわせのものばかりつかっていたら、場あたり的な人間ができあがるし、手抜きの品ばかり唯々としてつかっていたら、ちがいがわからなくなってしまう。なんにでも慣れてしまうものだ。

 

 好いものがわからなければ「高い」とおもう品を買うのがはやい。理屈など関係ない。なぜもなにもありはしない。

 

 あるいは、ただ節約するのではなく、こちらでなんらか工夫をする。仕事を施してつかう。目で手で足で解決する。ただ買わない、安く買う、というだけでは、知らぬ間に荒廃がしのび寄ってくるのである。

 

 コレクションもおなじである。新古品をネットでパッパッと買うのはほんとうはコレクションとはいえない。それでは買うか買わないかだけで、情緒や趣やロマンがない。だいいち、相場で買っていたらおかねもちの天下である。

 

 あるかどうかわからないところへ行って、藪でもなんでも漕いで、ボロボロのそれを見つけて、もちかえって磨いてみたらすごい品だった、というのがたのしいのである。コレクターはトレジャーハンターでもあるのだ。もとめている財宝が、たまたまひとからはガラクタにみえやすいというだけである。

 

 すぐれたものがつねに評価されるなら、マーケティングブランディングの出番はない。マイナーなものを正当に評価できるのは、それを日常にしているひとなので、マイノリティになるのはしぜんな成りゆきである。

 

 文化がさかえるには余裕がいる。それがなければ、よそに評価され、たのしまれ、価値づけられ、もっていかれてしまう。

 

 余裕がたりなければ、作品に適切な対価をあたえられず、報酬や待遇がさがれば担い手はへる。富がかたよるのは構造上やむをえないとしても、国レベルで相対的にまずしくなると、やはりいろいろなところで困ることがでてくる。

 

 つまるところ、ものをつくってたのしんだり、だれかがつくったものを味わってよろこんだりするには余裕が必要で、それはおかねと心技体との混合でできているように、私にはおもわれる。

 

 なお、精神的かねもちが、搾取されてもほんとうにけんかせずなのかどうかは、根っから小市民の私にはわからない。以上、連絡おわり。